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2004.09.21

映画『コンクリート』を観た

レンタルビデオ屋さんにあったので、借りてきて見た。
で、かなり迷ってしまった・・・ここに感想を書くべきかどうか。

脚本のK氏とはある映像関係のグループの会員同士で、何度もお会いしている。
直接、感想をメールで送ったほうがいいのかも・・・
などと迷いながら、結局ここに感想を書くことにした。
理由は・・・映画『コンクリート』は一般公開を前提としたれっきとした一本の映画であり、他の映画と同じように扱われてしかるべきだと判断したから。(一本の作品として尊重しているという意味です)

その上で、観た感想を一言で言えば・・・

この映画に「人間」は一人も出ていない・・・ということ。

人間を描くこと、即ち、葛藤を描くこと。
この映画の中には怒りや叫びや嘲笑や涙があるにはある。
しかし、そこに至る葛藤が描かれていないために、登場人物たちはまるで人間の形をしたロボットに過ぎない。

観る数日前に、K氏が公開したシナリオを読んだ。
その時点で私は頭を抱え込んだ。
一応シナリオの形はしているが、登場人物の感情が全く描かれていない・・・
時系列に沿って、起こった事柄は並べられてはいるが・・・
原作を基にした創作であるなら、もっと独創的な構成があってしかるべきでは・・・

それらの感想を抱えて、「出来上がった作品はシナリオとは別物」と期待して映画を見た。
だが、シナリオで感じた印象がますます強くなっただけだった。

前半、主役らしき大杉辰夫。が、後半、拉致監禁が始まったら大杉の視点が消えてる・・・主役はいったい誰なんだ?
大杉だけではない。大杉の恋人の存在も途中から消えて(忘れ去られて)いるし・・・
大杉の葛藤(あるいは彼が犯行に追い込まれていった過程)がちゃんと描かれてないから(表層の出来事だけだから)、大杉やその仲間たちがただのアホに見えるし、アホと結婚したがる女もアホにしか見えない。

被害者の美咲の描き方にも何の工夫もない。
平凡だが親の愛情を受けて育った幸せな娘さんが、ある日突然、拉致監禁され被害者になっていく不幸・・・
美咲のそれまでの生活は拉致監禁され始めてから、回想形式でフラッシュで入る。しかし、それは時系列に沿った入り方であり、感情を揺さぶるような構成の工夫もない。
だから、彼女の「幸と不幸の落差」が落差として感じられない。
よって感情のない映像(説明)として映し出されるだけ。

観終わって、私にはこの映画が「何を描きたかったのか」わからん。
『命の大切さを伝えたい』とおっしゃっているようだが、登場人物たちに『命』が吹き込まれていない映画で、『命の大切さ』が伝わるのだろうか?

プロデューサーはいったい、シナリオの何を、どこを読んだんだろう?
脚本家として言わせてもらうと・・・
脚本を書いている時、脚本家は自分の中でどんどんドラマを膨らませ、気がつけばテーマから逸れた方向へ熱く向かっているということが起こりうる。
その時に、客観的な目でシナリオを読んでテーマに引き戻してくれるのがプロデューサーだ。
また、足りないところ、余分なところを指摘してくれるのもプロデューサーだ。(もちろん、監督の意見も入りますが)
脚本にゴーサインを出すのもプロデューサー。
この作品のプロデューサーは、あのシナリオをちゃんと読んだ(読めた)のか?
この作品に脚本家VSプロデューサーVS監督の(意見の)闘いは、ちゃんとあったのか?
もし本当に『良い映画』を作るための闘いがあったら、あの素材でこんな作品にはならなかっただろうに・・・と思う。

以上かなり厳しい感想を書かせてもらいました。

最後に、K氏へ・・・
脚本を含め「表現する仕事」は見た人の数だけ批評・批判があります。
それらをいちいち気にしていたら何百回自殺しても足りません。
この仕事に携わる以上は、どんな厳しい批判・批評もそれはそれとして受け止める図太さが必要です。(それがないとこの業界は生き抜けません)

誰にでも「最初」はあります。
私なんか、「最初」から17年経っても、まだ一作ごとに自分の足りないところを思い知らされています。
今回の作品に対しては、私は厳しい感想を持ちましたが、あなたの脚本家としての将来を否定するものではありません。
あなたの人間としての良さを十分知るものとして、今後、プロの脚本家として頑張られること、心よりお祈りしていますので。

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映画・テレビ」カテゴリの記事

コメント

…見てないから、批評すべきではないけれど。
ただひとつだけは、いえることがあると思う。

…なぜ『本当にあった事件』を、下敷きにしなければ
いけないか。『描く必然性』があるのかということ。

…映画でも、小説でも『虚構の世界』を描くことで、
より『現実の世界』を描く、表現手段であると思う。

…ならば『現実の被害者』がいて、まだ癒えていない
その『傷』に、塩をすり込むようなまねをしなくても、
『表現者』なら、出来ることがあるのではということ。

…その「思いやりのなさ」あるいは被害者の二次被害に
無頓着な「思慮の不足した」製作姿勢。収益のために、
被害者の気持ちなんかは考えず「話題性」に飛びついた
卑しい製作サイドの姿勢、さもしい営業至上主義的根性。

…そういったものが「この事件で映画を作ろう」という
浅はかさから「透けて」見えてしまうのです。

…なぜ『フィクション』では『描けない』のでしょうか?


投稿: たまり | 2004.09.21 19:01

フィクションであろうとなかろうと、誰が、何をテーマにして映画を作ろうと、今の日本は自由なんです。
(原作使用を拒否されたり、事件関係者から映像化を拒絶されない限り・・・。作られた内容に関して問題があれば、法に訴えることもできますし)

映画をよく見てらっしゃるだろうたまりさんに言うまでもありませんが、「本当にあった事件」や「実話」をもとにしたテレビドラマ・映画はこれまでも多々作られています。

つい最近の作品ではカンヌで主演男優賞を受賞した柳楽君主演の『誰も知らない』も実際の事件を基にした映画です。

それから記憶に新しいところでは、桶川ストーカー事件のドキュメント・ドラマ。
私は、この作品を見た時、ドラマとしては突っ込み不足や物足りなさを感じました。同時にその理由も理解しました。

被害者の人権擁護と残された遺族への配慮・・・です。

この事件が私たちに残してくれた教訓・・・理解されないストーカー被害の実態、いい加減な警察の対応など・・・。
このドキュメント・ドラマは、それらの恐怖や怒りを視聴者に伝えることを第一義として、興味本位の推測の部分を排した被害者や遺族への配慮が行き届いた作りになっていました。

上記二本の例を見るだけでも、「本当にあった話」だからこそ、より現実味を帯びて心に迫ってくる作品になっている。

もちろん、全くのフィクションであっても同じ濃さ、同じ重さの作品を作ることが出来ます。
多くのテレビドラマ・映画は「時代を映す鏡」と言われるように、「今、私たちが生きている社会」で起こっていることをモチーフにして、フィクションとして作り上げられている。現実社会からもらったテーマを、全然別の衣を着せて見る人に訴えているわけです。

それらのことから、現実に起こった「女高生コンクリート詰殺人事件」を基に映画にすること自体は誰も止めることは出来ません。(遺族や関係者が差し止めする以外は)

にも関わらず、問題の映画に上映前から反対の声が上がったのはなぜか?

まさに・・・

>…その「思いやりのなさ」あるいは被害者の二次被害に
>無頓着な「思慮の不足した」製作姿勢。収益のために、
>被害者の気持ちなんかは考えず「話題性」に飛びついた
>卑しい製作サイドの姿勢、さもしい営業至上主義的根性。

>…そういったものが「この事件で映画を作ろう」という
>浅はかさから「透けて」見えてしまうのです。

たまりさんが書かれていることが私にも、他の多くの人たちにも透けて見え(感じ)たからだと思います。

この事件は、担当した裁判官までもが口にした「史上まれにみる残虐な(少年)犯罪」です。本や裁判記録を読んだだけでも被害少女は凄まじい暴行を受けている。現実はおそらくそれ以上だったのではないか・・・

これまで、この事件を基にした映画やドラマが作られなかったのはなぜか?

(かつて、セルビデオで作られています。それに関しては、遺族から販売しないで欲しいとの申し入れがあったらしいです。結局、間もなくそのビデオの製作販売会社・・・ビデオ安売り王・・・は倒産したらしい)
http://www5e.biglobe.ne.jp/~rolling/concrete.htm

この事件は現実社会の様々な問題をはらんでいます。
親子の問題、教育の問題、地域の問題、警察の問題・・・等など。すべて映画のテーマになりうる問題です。
同時に、あまりの凄惨さ故に、描き方によっては遺族の『傷』に塩を塗りこむことになってしまう・・・。

だから、もし、この事件を映像化するとしたら、この一作に自分の脚本家人生、監督人生、プロデューサー人生をかけるくらいの必死さと真摯さと覚悟が必要だと思う。

その必死さと真摯さと覚悟がない限り、中途半端に作るべきではない・・・。きっと、多くの映像関係者はそれが分かっているから、安易にこの事件を映像化しない、できないのだと思う。

同業だからこそ思うのは、脚本家にせよ監督にせよ、数千万円~数億円を使って、自己満足的で無意味な作品をつくろうなんて思う人はいません。みんな、自分なりの問題提起や共感を求めて、人の心を動かすような作品作りを目指しているはずです。

この作品の脚本家や監督もそのつもりだったのでしょう。
しかし、脚本家も監督もプロデューサーも、これだけの重いテーマを掘り下げて描くにはあまりにも未熟すぎた。

なのに営業至上主義で、レンタルビデオ&DVDで全国にばら撒けば採算が取れる、まずはそれでよしといった安易さで作ってしまった。

出来上がった作品の感想については、本記事に書いたとおりです。
作った人たちは、映画に対する肯定も否定も、さらに、たまりさんや私のような厳しい意見もすべて我が身に真摯に受け止めてもらうしかない・・・としか言えません。

この映画の問題を通して、私が一番感じたことは、作る側の姿勢はちゃんと見る側に伝わるということ。
これに関しては、同業のものとして他人事ではありません。
この映画への批判を反面教師にしなくてはと心が引き締まる次第です。

投稿: ラブママ | 2004.09.23 13:47

『コンクリート』を観ていないのでスレ違いになってしまうかもしれませんが・・・フィクションではなく実在の事件を元にすることの意味という観点から・・・

『誰も知らない』を観ました。
サントの『エレファント』とも共通したある種の「美しさ」を持った映画で、悲惨な事実を観察して細密に描かれた「写実画」の持つ静謐な美に近いもののように感じました。

両者に共通しているのは、徹底して事件の主人公である少年少女たちの視点に「立とうと試みている」ことで、「これこれの問題を抱えた少年が、これこれの理由で、こういう行動をとった」という「分析」はおろか、「こういうことなのでは?」という憶測すら一切排除している事です。

『エレファント』のタイトルは「我々はこの事件についていかに考えようとも、目の不自由な人が象に触る寓話のようでしかない」という意味をこめてつけられたとのこと。
『誰も知らない』もまた、実在の事件について考察を重ねれば重ねるほど、なぜそうなったんだという「分からなさ」の前で呆然としつつも、渾身の「写実」を試みようとしている映画だと感じました。

どちらの映画も劇場は満員でした。
僕は、映画というものは「観客から必要とされているか?」という自問自答が最も重要だと思っています。
おかしな言い方に聞こえるかもしれませんが、映画は撮られた時点から(観客が観る前から)良くも悪くもオーラを放ちはじめるのです。
カンヌで受賞したとはいえ映画としては地味なジャンルだと分かっている『誰も知らない』や『エレファント』がなぜ多くの観客から必要とされ、チケットが買われたかというと、「自分たちとも関わりのある事柄についての誠実な考察がそこにはある」というオーラを放っていたからだと、思っています。

とりとめもなく、そんなことを思いました。

投稿: 鹿野 | 2004.09.23 23:50

…もちろん「表現の自由」を、否定するものではありません。
話題になった実話を「題材として選ぶ」こともあるでしょう。
しかし、その一方で「人権の尊重」ということもあるのです。

「宗教の自由」は尊重しても「人を不幸にする自由」はない。
オウムに殺された坂本弁護士が、事務所にきた上祐や青山に、
敢然と言い放った「ことば」と言われています。

同じことが「表現の自由」についても言えるんじゃないかな。

話題になった実話を題材に、表現者が表現するのは自由だが、
その映画や小説で、モデルにした人を不幸にしてはいけない。
人を不幸にする「表現」は、決して「自由」ではないと思う。

…柳美里の「石を泳ぐ魚」裁判の争点と、同じではないかな?
基本的に「あらゆる表現」は「すべて自由」で「観たもの」が
それぞれ「判断すれば良い」という「意見」もあるけれど…。

…私は、そういう「自由」は認めたくない。「実話」をもとに
表現者が「表現」するなら、自分自身の表現として「虚構」で
表現できるはず。あくまでも「虚構」として作るべきと思う。

…「虚構」には、モデルがあったとしても、それは観るものに
「実際にあったこと」と誤解させるようなものではならない。
少なくとも「虚構を、あったかのように」使うべきじゃない。

ムーアのように「ノンフィクション」に名を借りて「何か」を
表現するなら。徹頭徹尾「実際の映像」を使うべきだと思う。

投稿: たまり | 2004.09.24 22:05

>鹿野さん(亀レスですみませんm(__)m)

『誰も知らない』も『エレファント』も是非見たい映画です。
鹿野さんの感想を読んで、ますます見なくてはと思いました。

『誰も知らない』は初めてそのタイトルを聴いた瞬間に、私は昔からたまに口ずさむ黒人霊歌を思い出しました。

Nobody knows the trouble I've seen,
Nobody knows but Jesus,
Nobody knows the trouble I've seen,
Glory hallelujah.

Sometimes I'm up, sometimes I'm down!
O yes, Lord!
Sometimes I'm almost to the ground,
O yes, Lord!

誰も知らない私の悩み
神様だけが知っている

誰も知らない私の悩み
主に栄光あれ

時には元気だが、時には落ち込み、倒れこむ事さえある
ああ!神様!

是枝監督がこの黒人霊歌を知っていたかどうか(有名な曲なので知っていたかも)は分かりませんが、「誰も知らない」というタイトルらしくないタイトルから、是枝監督の祈りのようなものを感じました。

>「自分たちとも関わりのある事柄についての誠実な考察がそこにはある」と
>いうオーラを放っていたからだと、思っています。

今なぜその映画を作るのか?

どんな企画でも最初に問われる問題です。
実話を取り上げる場合、その問いにどれだけ「誠実、かつ、深い考察」をもって答えを出すか・・・
もう、そこから作品の質の差が現れているのかもしれませんね。

投稿: ラブママ | 2004.09.26 13:32

>たまりさん(またまた亀レスですみませんm(__)m)

>「宗教の自由」は尊重しても「人を不幸にする自由」はない。
>オウムに殺された坂本弁護士が、事務所にきた上祐や青山に、
>敢然と言い放った「ことば」と言われています。

>同じことが「表現の自由」についても言えるんじゃないかな。

たまりさんのおっしゃること、本当にその通りです。
実話やドキュメントの場合、映像作品そのものが、関わった人の人権を傷つける凶器にもなりえます。
(もちろん、虚構の作品でも「石を泳ぐ魚」のように、明らかにモデルが特定できるような表現も凶器足り得ます)

『誰も知らない』も『エレファント』も実話をベースにしつつ実話からは見えなかった部分を、独自の角度で描いている・・・その意味では、実話にインスピレーションを得て『虚構』の作品として成立している。
だから、現実の(被害者の)誰をも傷つけてはいない・・・のではないかという気がします。

ノンフィクションにおいても・・・
私は『華氏911』に続いてビデオで『ボーリング・フォー・コロンバイン』を観終わったばかりですが、2本を通じて感じたのは、M・ムーアは被害者や弱者を絶対に危機に曝すような作り方はしていないと言うこと。
(たまりさんの表現を借りれば、彼らの傷に塩を塗りこむような作り方はしていない・・・ということです)

鹿野さんの言う「誠実な考察」そして深い考察もなく、あったことをそのまま再現するだけなら、それは作品とはいえません。
作るべきではないし、作られるべきではない・・・
しかし、現実の作品製作に関しては、どこからどこまでが人権無視か否か・・・という基準もないし、チェックもない(映倫だけかな)。
つまり、作る側の良心と姿勢に任せられているわけで・・・。

多くの映像関係者は、人権の問題については重々考慮して作品を作っていると思います・・・

けど、もしそうでないと感じた作品については、たまりさんのように一般の人々から声を挙げていただくしかない・・・というのが現状かな・・・。

投稿: ラブママ | 2004.09.26 16:00

…「誰も知らない」を見た。私の感想は、Blogに書くとして…
私はこの映画は、是枝監督なりの置き去り事件の視点と思う。

もちろん実際の事件は悲惨だろう。しかしその映像は美しい。
ここでは、むごい『死』は出てこない。リアリズムではない。
しかし『リアルな死』ではある。誰でも知っている『死』だ。

冷たくなった体。小さな子供には、理解できない『お別れ』。
悲しみというより、空虚感。モノになってしまった、違和感。

事件は当初。死体を遺棄した長男の折檻が原因と伝えられた。
弁護士や生き残った妹弟の証言から「折檻」が否定されると、
幼い子供たちを置き去りにした、母親をマスコミは非難した。

…是枝監督は「なぜ長男が家族を捨てず、守ろうとしたか」に
注目する。母親が子供を虐待していれば、彼も虐待したろう。

妹の「やさしいおにいちゃん」は、「やさしいおかあさん」に
育てられたのではないのか…たとえ身勝手な母親ではあっても
彼の守ろうとした…「家族の幸せな時間」があったのでは…。

これは「フィクション」である。是枝作品である。そう思う。

しかし、野坂昭如のノンフィクションである『火垂るの墓』。
私の近所にすんでいた、戦災孤児と祖母の生活を思い出した。

リアルであることを、信じられない人もいるのかもしれない。
フィクションであると、信じられない人もいるかもしれない。
フィクションだからこそリアル。したがって…映画だと思う。

投稿: たまり | 2004.10.01 23:32

実話があったとして
ドラマや映画というのは
その実話を解体するところから始まるのだと思います。

作り手の感性によって再構築される。
その時、実話は実話でなくなり、
実話を超えたメッセージを発し始める。

フィクションだからこそリアル・・・

そんな強烈な印象を人々の心に刻むことが出来る。
言葉や国境を越えて・・・

起こった事件を再現するだけなら、それは映画ではありませんね。

投稿: ラブママ | 2004.10.02 08:56

 多分、製作に踏み切ったのは、こちらも実話インディアナ少女監禁事件を題材にした映画『隣の家の少女』に触発されてコンクリートを製作したのではないか?

大方そんなところだろう。隣の家の少女はかのスティーブンキングが絶賛しており、映画も『スタンドバイミーと表裏一体の作品』と評価している。
しかも内容も、綾瀬コンクリート事件によく似ている。
とことんバカなクリエイターたちだな。便乗しようというのがバレバレじゃないか!なにが犯罪を起こした少年の精神状況の描写だ!しかもAV女優を起用してるじゃないか!

とことんバカな監督だな!映画公開中止したとか言って、ちゃっかりdvdは販売しているし!
もうこんな監督に未来はないな!とっとと消えろ!

投稿: きんぐ | 2012.07.09 00:26

>きんぐさん

コメント、ありがとうございます。亀レスで申し訳ありません。

映画「コンクリート」に関してのきんぐさんのご感想、それも一つの評価として拝読させていただきました。

ただ、ひとつだけ誤解があるようなので、下記ご覧ください。

1965年:インディアナ少女監禁事件(シルヴィア・ライケンス事件)

1988年:綾瀬女子高生コンクリート詰め殺人事件

1989年:小説『隣の家の少女』発売 ジャック・ケッチャム著(インディアナ少女監禁事件を基にした小説)

2003年:「十七歳、悪の履歴書―女子高生コンクリート詰め殺人事件」発売 渥美饒児著

2004年:映画『コンクリート』公開(実話:女子高生コンクリート詰め殺人事件)

2007年:映画『隣の家の少女』グレゴリー・M・ウィルソン監督 公開(実話:インディアナ少女監禁事件)

2007年:『アメリカン・クライム』トミー・オヘイヴァー監督 公開(実話:インディアナ少女監禁事件)

時系列から見ると映画としては『コンクリート』のほうが先に製作・公開されているので映画『隣の家の少女』に触発されてということはあり得ませんが、ジャック・ケッチャムの小説『隣の家の少女』には影響を受けたかもしれませんね(あくまで憶測ですが)


映画『隣の家の少女』や同じ事件を描いた『アメリカン・クライム』のことは知りませんでした。
探して見てみますね。

投稿: ラブママ | 2012.07.14 19:07

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