映画『オール・アバウト・マイ・マザー』
今年に入って観た映画(レンタルビデオ)が溜まってきたので、少しづつUPしておきます。
1999年 スペイン
製作総指揮: アグスティン・アルモドバル
製作: エステル・ガルシア
監督・脚本: ペドロ・アルモドバル
出演: セシリア・ロス/マリサ・パレデス
ペネロペ・クルス/カンデラ・ペニャ
アントニア・サン・ファン/ロサ・マリア・サルダ
【内 容】
http://www.werde.com/movie/new/aamm.htmlより
マヌエラ(セシリア・ロス)は38歳の移植コーディネーター。女手ひとつで育ててきた息子のエステバンとマドリッドで暮らしていた。息子は作家志望で、母親のことを書こうとしていた。しかし母のすべてを書くには、大事なことが欠けていた。彼は父親について母から何も聞かされていなかったのである。
エステバンの17歳の誕生日、ふたりは大女優ウマ・ロッホ(マリサ・パレデス)が主演する「欲望という名の電車」の舞台を観に行く。それは20年前にアマチュア劇団にいたマヌエラが夫と共演した思い出の芝居だった。彼女はこれまで触れずにきた父親のことを遂に息子に話そうと心に決めていたのだ。だが終演後、ウマ・ロッホにサインをしてもらおうとして彼女の車を追いかけたエステバンは、脇から飛び出した車にはねられてしまう。
息子の死を前にし、マヌエラは作家を志していたエステバンが肌身はなさず持ち歩いていたノートに書かれた彼の最期の言葉を読むのだった。
「昨晩、ママがはじめてぼくに昔の写真を見せてくれた。芝居をやっていた頃の写真だ。ところが、写真の全ては半分に切られていた。切られた半分はお父さんにちがいない。僕の人生が同じように半分失われている気がする。お父さんに会いたい。たとえお父さんがママにどんなひどい仕打ちをしたのだとしても。」
マヌエラは、息子に父親が誰であるかをとうとう言い出せなかった。彼女は失った息子の最期の想いを伝えるため、仕事を辞め、かつて青春時代を過ごしたバルセロナへ旅立つ決意をする。マドリッドからバルセロナへ。17年前に別れた行方不明の夫を探す道のりは、母が“女”としての自分をとり戻す再生の旅路でもあった……。
【感 想】
主人公・マヌエラの職業が移植コーディネーターということに興味を引かれて借りてきた。
自分の息子が脳死状態になった時、移植コーディネーターである母はドナー(臓器提供者)として息子を差し出せるのだろうか? その苦悩がどのように描かれているのか、息を詰めて観た。
キリスト教が背景にある社会と、そうでない社会とでは臓器移植に対する考え方が明らかに違うということだけは再確認できた。
だが、この映画は移植コーディネーターの映画ではない。
ここから、主人公の母として、女として本当の物語が始まる。
この映画の中に「欲望という名の電車」の舞台シーンが何度も登場し、ついに主人公は代役として舞台に立つことになる。また主人公は映画の最初で移植コーディネーターのシュミレーションで「息子の死を知らされる母」の役を見事に演じている。
アルモドバル監督は“俳優ではないが演じる能力を持った人々についての映画を作ろうというのが最初のアイディアでした”と語り、演じる存在としての女性が重要なテーマのひとつになっている。
アルモドバル監督:『私の家族には男よりも‘演技’のうまい女性たちがいました。彼女たちは嘘をつくことで何度も悲劇を免れていました。40年前、私が居た頃のラ・マンチャは不毛でマッチョな土地柄で、各家庭を支配していたのは、青天井の下、アームチェアに座った男たちでした。けれども実際に問題を解決していたのは女性たちでした。彼女らは黙々と、時には必要に迫られて嘘をつきながら、問題を解決していました。女たちは男にばれたり邪魔されたりしないように演技をし、嘘をつき、隠しごとをし、そうすることで人生を先へ先へよどみなく進めていたのです。その姿は活き活きとしており、見せ物としてもなかなかのものでした』
命を繋いでいく母=女の強さをしっかりと見せてくれる映画だった。
カンヌ映画祭で最優秀監督賞、99年度アカデミー外国語作品賞受賞。
ペネロペ・クルスはあまり好きなタイプの女優じゃないけど、この映画の彼女は純粋でとても可愛かった。
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