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2008.09.30

デジタル時代とテレビ

先日、ある勉強会で読売新聞編集委員・鈴木嘉一氏を招いてデジタル時代とテレビの構造変化についてお話をうかがう。

民放テレビ局の現状などハードの面ではお話の一つ一つに目から鱗で、理解・共感できることも多くて、とても勉強になった。

一方、ソフト面に関しては・・・

ちょうど『著作権という魔物』という本を読んでいる途中で、これが一回読んだだけではとても理解できずに、頭の中が混乱の最中。
この本の後半に「テレビに未来はあるのだろうか(前・中・後編)」というルポがあり、鈴木氏の話を聞きながらも「テレビに未来はあるのだろうか」というフレーズが頭の中で行ったり来たり。

著作権がらみで、そのフレーズをそのまま鈴木氏に聞いてみたいところだけれど、質問する私自身がきちんと理解できていないことを中途半端に質問することも出来ず、自分自身への宿題とすることに。

ということで、昨日、やっと『著作権という魔物』を読み終え、積読になっていた『ウェブ人間論』を読み始める。順番から言えば、『ウェブ進化論』から読むべきだけど、後から出版された『ウェブ人間論』の方が先に手元に届いたので。



私がインターネットを始めたのは1996年5月末。インターネット元年といわれている1995年の翌年だ。もちろん、当時は1995年がインターネット元年などといわれていることなどは全く知らず、仕事の上で絶対便利、必要と思ったので始めたわけで。(その前からワープロにてニフティ通信はやっていた)

ネットはシナリオを書く上での資料調べにはとても便利で大いに助かった。
原稿は最初の頃、ワープロで打ったものをプリントアウトして手渡していた。
やがて、プロデューサーからOKが出た最終稿はフロッピーに保存、印刷屋さんがフロッピーを取りに来てくれた。
そして、ついに原稿はメールの添付ファイルとしてやり取りするのが普通になった。

脚本の仕事をする上ではインターネットの普及により、随分助かったことも多い。

同時進行的にCSやBSも普及し、来るべきデジタル時代に向けて、ドラマ枠は増えて脚本家や放送作家の仕事場はどんどん拡大していく・・・と希望を持った・・・そんな時代もあった。(つい数年前のことだけど)

しかし、現実はどうだろう・・・

今、私の中ではデジタル化とネットコンテンツのそれぞれの問題がゴチャゴチャになっていて、訳ワカラン状態。

ミクロ的視点で各論の問題を摘んで読んでいるとますます訳ワカラン状態になってしまう。なので乱読でもいいので関係本を読み進めているうちに、マクロ的視点からすべてが繋がって見えてくるのではと思っている・・・というのが今の私の現状。



最近、テレビ関連で胸にグサッと来たり、気になった記事を記しておこう。

前出の勉強会で鈴木氏が配ったテキストの中に[参考]として取り上げられていた文章。

 「日々流される番組は、失礼な言い方をさせてもらえれば、若者の散らかった部屋を見せられるような気分にさせられる。NHKの番組はていねいに作られ、昔から比べて水準が落ちたとは思わないが、民放の番組はおしなべてひどい。工夫というのは、散らかった部屋をどの角度からどの部分を写すかということのようで、そこに住んでいる芸能人たちのおしゃべりは、チャンネルをどこに回そうと同じなのではないか。大人が観るに堪える番組があまりにも少ない」 (立松和平「悲しきテレビ生活」、「調査情報」9・10月号の特集「ほんとうか? 団塊世代のテレビ離れ」より)


『著作権という魔物』の中でも、テレビに対する厳しい意見を散見する。

(前略)流れるコンテンツの下らなさに呆れてしまって、テレビのスイッチを切ってしまうことがある。自局で作った番組の番宣をほぼ一日流し続けているなどということをしばしば目にすることも多い。テレビ局は、ほとんど感覚が麻痺しているか、視聴者の方を向いていないかのどちらかだとしか思いようがない。

(中略)

 「何かテレビ自体が面白くない、個性的でない、間違いなく。似たような番組ばっかりだから」(クリエーターズ・高村裕氏)
 このことは前回に書いたことである。同じタレントが出た同じような番組ばかり。知財立国、コンテンツ立国というかけ声ばかりで、コンテンツと言える物など今は作られているのだろうか?と誰もが思っている。そもそも、民放の職員自体が地上波は見ないと言うほどなのだ。
 「ディレクターとかプロデューサーがそれぞれの個性とか能力を発揮するような場ではなくなっている。それはみんな、相当前に気がついているんだよね。このままここでやっていていいのか。特に各社、若手が必要じゃないですか。ところが若い人が来なくなっているわけだ。プロダクションは3Kの一番のところと言われていますし、それから権利の問題もあるし、トップのディレクターになるチャンスがだんだんなくなってきているし。魅力のある職場じゃなくなってるんだよね」(クリエーターズ・高村裕氏)
 長く隆盛が続いた現場だが、へたりが出てきている。出版界に長い出版不況が続いているように、テレビ業界もその不況に入りつつあるのではないか・・・。
(「著作権という魔物」岩戸佐智夫著 アスキー新書より)



ネット検索でも厳しい意見がヒットする。

「正直、テレビはもうダメかもしれん」
放送をDVDやネットでも利用する、「テレビの二次利用」が話題となるようになって随分となるが、実際にはさほど進んでいない。そもそも、今のテレビに二次利用の価値があるコンテンツはあるのだろうか
。(ITmedia+D 小寺信良氏 08年03月03日コラムより

ただ、小寺氏は二次利用の問題に関して次のように書いている。


 テレビ番組は、二次利用する価値があるのだろうか。そもそも現時点で二次利用の価値が高いアニメ作品などは、すでに二次利用前提の制作方式になりつつある。オリジナルの二次利用が難しいのならば、アニメの場合はリメイクという手が使える。映画は元々買い物なので、関係ない。ドラマは米国のiTunesで成功例があるように、単体で切り売りできる可能性は残っている。問題はそれ以外の、とはいっても放送時間の大半を占める情報・報道番組、バラエティ、ドキュメンタリー、スポーツといったテレビ特有のコンテンツを、どのように売るかだ。

 このようなコンテンツは、単体で切り出しての有料配信は難しいだろう。なぜならば、これらはその時々の旬で成り立っており、間を開けてしまったら視聴する理由がなくなるものだからである。さらに民放地上波は、無料放送だからみんな湯水のようにテレビを付けっぱなしにするわけで、その情報に単価を付けること自体が無理なのだ。

 現状のタレントが大騒ぎするだけの番組は、もともと消費財である。消費者側にも二次利用のニーズは少ないだろう。無駄にトラフィックを圧迫するような無理矢理な送信されても、ネットを使いこなすような新しい消費者は「No Thank You.」と答える可能性すらある。

 テレビ番組に二次利用の価値があるかどうか、もう一度じっくり考えてみよう。もしかしたらそれは、テレビの全盛期を知っている古い世代の人間の錯覚かもしれないのだから。

 脚本家として一番かかわりのあるドラマに関しては、(著作権の)権利処理の問題さえクリアされれば、ネットでの二次利用の可能性も大いにあるわけで、あとは二次利用の価値がある内容かどうかの問題、ということでドラマの将来は捨てたものではないと信じたい。

 現に、数年前から、ドラマやドキュメンタリーに関してはそれらを世界に発信する第一歩として、アジア諸国との交流が盛んに行われている。

 日本と韓国、中国など東アジアの放送作家が一堂に会する国際会議「東アジア放送作家カンファレンス」が2000年から開催。3回目の今回は、ベトナムやタイ、フィリピンも初参加して、それぞれの国のドラマを上映、相互理解、相互交流が図られている。

 その他、「国際ドラマフェスティバル」や「放送人の会・日韓中テレビ制作者フォーラム」など日本の作品を海外に向けて発信する動きも盛んになってきている。

 放送と通信の融合に関しては、今のところ訳ワカラン状態だけど、ドラマの未来に関しては、良質な作品作りさえしていれば憂うことはない・・・と確信・・・したい。

    

    

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