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2015.12.05

日独合作映画『新しき土』~一つのフィルムからファンク版と伊丹版の2つのバージョンが作られたその原因と時代背景~

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『新しき土』(The new earth:ドイツ語版タイトル Die Tochter des Samurai=侍の娘)

製作:1937年(日・独)
監督・脚本:アーノルド・ファンク、伊丹万作
撮影: リヒャルト・アングスト、上田勇
音楽: 山田耕作(作詞:北原白秋)
撮影協力:円谷英二
製作:東和商事映画部、J.O.スタヂオ、Dr. Arnold Fanck-Film

出演: 原節子/早川雪洲/ルート・エヴェラー/マックス・ヒンダー/小杉勇/英百合子/中村吉次/高木永二/市川春代/村田かな江/常盤操子



【あらすじ】
8年間の欧州留学を終えた大和輝雄(小杉勇)は恋人でもあるドイツ人女性ジャーナリスト、ゲルダ(ルート・エヴェラー)を伴って帰国する。日本では許嫁(いいなずけ)の光子(原節子)が輝夫の帰りを待ちわびていた。貧しい農夫の息子だった輝雄は、名門の大和家の養子になり、将来、一人娘の光子と結婚することになっていた。
東京のホテルで光子とその父の大和巌(早川雪洲)に温かく迎えられた輝雄。だが、西洋文明の影響を受け、古い日本的因習は忌むべきものと考えるようになった輝雄は許嫁という慣習に反発を覚え、その気持ちを光子と巌に告げる。そんな輝雄を見たゲルダは光子に同情し、輝雄の姿勢を非難する。
光子と巌と入れ違いにホテルを訪れたのは、実父・神田耕作(高木永二)と実妹・日出子(市川春代)だった。二人はすっかり変わってしまった輝雄に驚く。兄を思う日出子は欧州にかぶれた輝雄の目を覚まさせようと東京の街を連れ回し、彼が幼い頃教えを受けた老僧のもとへ連れていく。老師の言葉は輝雄の目を開かせた。
一方、大和家では巌と光子の婚約解消について親族会議が開かれていた。絶望した光子は、ひとり婚礼衣装を胸に抱いて噴煙を上げる山を目指し、火口に身を投げようとする。
ゲルダから光子の本心を聞かされた巌は光子の後を追って火山を登る……。


【監督について】

◆アーノルド・ファンク(Arnold Fanck、1889年~1974年)
ドイツの山岳映画の巨匠。
第一次世界大戦で荒廃したヨーロッパで、ダイナミックな自然美を背景にした作品を撮る。処女作『スキーの驚異』(1922)をはじめとしたサイレント映画時代から山岳を主題とした映画を撮り、多くの観客を魅了。映画ファンのみならず、山岳家、スキーヤーを始めとする一般スポーツマンにまで幅広い支持を集めた。
『聖山』(1926・無声)で、ダンサーだったレニ・リーフェンシュタールを主演に起用。レニ・リーフェンシュタールは後に監督としてナチスのプロパガンダ映画『意志の勝利』(1935)やベルリンオリンピックの記録映画『オリンピア』(1938)を撮影。


◆伊丹万作(1900~1946)
日本映画の礎となった監督の一人。
1927年、谷崎十郎プロに俳優として入社。翌年、伊藤大輔の推薦で片岡千恵蔵プロダクションに脚本家兼助監督として入社し、自身の脚本による『仇討流転』(1928・無声)を初監督。その後『春風の彼方へ』(1930・無声)、『花火』(1931・無声)、『国士無双』(1932・無声)など、機知に富んだ作品を次々と生み出す。
新興キネマで、トーキー第1作『忠次売出す』(1935)を作った後、千恵プロに戻ってナンセンス喜劇『気まぐれ冠者』(1935)を監督。ファンクはこの作品を見て伊丹を高く評価。1936年、志賀直哉の短編を縦横無尽に脚色した、日本映画史に残る傑作『赤西蠣太』が生まれる。


【キャストについて】

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◆原節子(1920~2015)
「永遠の処女」と呼ばれ、戦前から戦後の日本映画の黄金時代に活動。代表作に『わが青春に悔なし』(1946年 黒澤明)、『青い山脈』(1949年 今井正)、『めし』(1951年 成瀬巳喜男)、『東京物語』(1953年 小津安二郎)など。
1963年に女優業を引退し、以降、2015年に逝去が伝えられるまで表舞台には一切姿を表さなかった。2000年に発表された『キネマ旬報』の「20世紀の映画スター・女優編」で日本女優の第1位に輝いた。
1936年、山中貞雄監督『河内山宗俊』の撮影中に見学にきたアーノルド・ファンク監督の目にとまり、初の日独合作映画『新しき土』のヒロイン役に抜擢される。



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◆早川雪洲(1886~1973)
日本を代表する国際スター。1907年、21歳で単身渡米、1910年代に草創期のハリウッドで映画デビューして1915年セシル・B・デミル監督の『チート』(The Cheat)で一躍トップスターに。日本人排斥運動や二度の世界大戦、私生活での混乱などによるキャリアの中断を挟みながらも、晩年の『戦場にかける橋』(1958)でアカデミー助演男優賞にノミネートされるなど半世紀以上にわたって活躍した国際的映画俳優。

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◆小杉勇(1904~1983)
内田吐夢監督『生ける人形』(1929)で強烈なヒーロー像を演じ、大ヒットした『人生劇場・青春篇』で青成瓢吉を演じた、日活を代表するスター俳優。戦後は映画監督に転じ、東横映画、東映を経て、日活で数多くの娯楽作品を撮った。その一方、俳優としても他監督の作品にも出演。
『新しき土』でのその容貌に関しては、「海外に出すにはあのまま」では「誤解を招く惧れあるのみ」と当時の新聞評に書かれている。欧米の美男俳優に遜色ない、眉目秀麗な二枚目を起用せよと。
しかしファンクが主人公の輝雄に求めたものは、農民の出自を感じさせる風貌、雰囲気であり小杉勇はその点ファンクのイメージ通りだったと思われる。


【エピソード】
◆製作費
六十万円という巨額の制作費。(現在の額で12億~18億円)
ドイツ側(政府)
ゲッベルスは『新しき土』のために三十万円支出。
日本側(民間出資者)
川喜多長政:東和商事社長
大澤義夫:J・Oスタジオ専務
樺山愛輔:日本プレミアを主催した国際文化振興会理事長。伯爵。長男は当時J・Oスタジオ取締役、樺山丑二。
政府が全面的なバックアップをしているドイツとは異なり,日本での興行リスクは一民間人に負わされていた。


◆映画技術
◇ズーム・レンズ
昭和11年の「キネマ旬報」ではファンクを囲んだ座談会「アーノルド・ファンクと語る」を掲載。その中で日本の映画人が一番興味をもったのは,ファンクの芸術的センスではなくて,彼の持ってきたズーム・レンズだったという。
ズーム・レンズは『イット』(1929年・米)以来、欧米の映画で普及していたが、実物が日本にもたらされたのはこれが初めてだった。このズームレンズは1万3000円(現在の価格で約3000万円)というとてつもなく高価なもので、このレンズをファンクは二台もってきていた。


◇スクリーン・プロセス撮影
ドイツにはなかったスクリーン・プロセス撮影(特殊撮影技術の一つ)が、若き日の円谷英二の手によって行われた。当時は未だ特撮という言葉は使われていなかったため、円谷英二の名前は撮影協力としてクレジットされた。


◆シナリオ
ファンクはドイツから日本に向かう諏訪丸船上で、シナリオの第一稿「東の風・西の風」を書き上げていた。これは当時欧米で広く読まれていたパール・バックの同名作品を下敷きにしたものだった。

伊丹は,持ち味のシナリオに自信が持てないという理由で,再三,参加要請を固辞した。
最終的には伊丹が折れて,協同監督に就任することになるが,伊丹の危惧は不幸にも的中する。
製作が進行する中で二人の監督の見解はいよいよ相違し,事態は収拾がつかない所までもつれた。
作品の芸術的価値を基準とする日本側スタッフと、国家の認証を基準とするドイツ側スタッフとの間には、越えがたい溝があった。
ついにはファンク版,伊丹版を別途製作することで,決着をはかることになった 。

なぜドイツ側は伊丹万作の起用を強硬に主張したのか。
ファンクがストーリーを極力切り詰める監督であることは,すでに定評となっていた。
その欠点を補うため、かつて『死の銀嶺』ではG.W.パプストが共同監督に就いて成功を収めた。
ドイツ側は伊丹万作には『死の銀嶺』におけるパプストの役回りが期待されていたのではと言われている。

映画の冒頭に伊丹版では観客の反発を見越して、ファンク版にはない字幕を付け足した。
「これは日本を訪れたあるドイツ人が、彼の見聞を基礎にして作った一つの夢である」

ファンクは映画の完成を記念して、ドイツのプレス記事を集め、また映画の成り立ちを綴った文章を収めてベルリンで『記念帳』を私家出版した。
序文には、伊丹万作にあてた感謝の言葉が記されている。


「親愛なる伊丹さん  あなたは私の撮影の援助者である立場に加え、あなたが考え出したわけでもなく、また本質的に違和感を持たざるを得ないテーマについて御自分の版を製作される決心をされました。そのとき以降、あなたは初めから望みのない課題の前に立たされてしまったのです。
あのときのあなたを、今はっきりと理解できる唯一の人間は、ひょっとしたら私だけかもしれません。
そしてとりわけあなたを悩ましたのは、御自分のものではない映画の様式でした。私自身、芸術家ですので、いかなる芸術上の理由から、当時の私を不意打ちにしたこの決定をなされたのかはよく理解できました。もっともそれがあなたに悲劇的な運命をもたらすのではないかと初めから案じていたことも事実であります。


中略


すなわち、貴国日本をわがドイツの観衆に少なくともある程度合点させるためには、単純化した視点で、数千キロの高さから見下ろさねばならず、日本人の心の襞にわけ入ることは諦めねばならなかったのです。むろん私は芸術家ですから、個人的には共感をもってそれを観察していたわけなのですが。しかし初めて日本人を理解しようとするヨーロッパの多数の観衆に、それを求めることはできない相談なのです。
ドイツで試写会のあった日、宣伝相ゲッベルスは,武者小路駐独大使の晩餐会の席上,ファンクを前にして,(ファンク版について)次のような批評を口にした。


「此の次の映画にはもっと確りした脚本を準備し給え。一貫して纏った力強い筋が映画には一番大切なのだ。美しく変った景色や風俗の異った人間の陣列も一度は観衆の興味をひくが二度と繰り返すべきではないよ。」
さらに、ゲッベルスは当日の日記に次のように書きとめている。


「夕刻カピトール座にて独日合作映画『サムライの娘』の初演。独日協会主催による大々的な公式行事。映画は幻想的な映像を駆使し、日本人の生活と思想について好印象を与えるもの。また筋もまあまあ。しかし耐えがたい長さ。映画の魅力を著しく損なっている。すぐにハサミをいれる要あり、厳格に。」


【作品内容について】


  


◆富士山のふもと辺りに住んでるようなのに、なぜか家の裏に厳島神社(広島県)があって、鎌倉の大仏みたいなのもあったり、また一方には、噴煙を上げる浅間山(?)があったり...
富士山と厳島と浅間山がわけのわからない感じでつながっていたり(日本の地理を無視)
◆横浜に行く船が、まもなく松島の風景を横目に進んだり
◆輝雄とゲルダが夜の東京をタクシーで見物すると、大阪梅田の阪神電車のイルミネーションが光っていたり、あるいは二人の泊まるホテルが甲子園ホテル(ライト門下の遠藤新設計)だったり
◆輝夫の妹・日出子の勤め先が大阪の大阪紡績(現・東洋紡)

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◆富士山(浅間山?)が爆発して、原節子が草履で、さらに輝夫が足袋のまま噴煙もうもうたる火山に登って行くというようなあり得ないシーン。
◆冒頭いきなり地震の場面もある、地震で倒壊する日本家屋は、円谷特撮。
日本を知らない人が見たら、やたらと景色がいい国だが、年中地震が発生して、安心して住めない所との印象を与えてしまいそう。
日本人が観たら「ここはどこ?」「なんでこうなるの?」のオンパレード。


なぜ、こんなトンデモ映画になったのか、その答えは、時代背景にある。


【時代背景】
1925~1926年(大正14~昭和元年)アドルフ・ヒトラー『我が闘争』出版
第1巻第11章: 民族と人種
アーリア人種を文化創造者、日本民族などを文化伝達者 (Kulturträger)、ユダヤ人を文化破壊者としている。日本文明を、欧州文明の模倣に終始する亜流と位置づけている。
外交政策ではロシア(ソビエト連邦)との同盟を「亡滅に陥る」と批判し、「モスコー政権〔モスクワ政権〕は当にそのユダヤ人」であるとしている。また、ドイツが国益を伸張するためには、貿易を拡大するか、植民地を得るか、ロシアを征服して東方で領土拡張するかの3つしかないとし、前者二つは必然的にイギリスとの対決を呼び起こすため不可能であるとした。これは東方における生存圏獲得のため、ヨーロッパにおける東方進出(東方生存圏)を表明したものであり、後の独ソ戦の要因の一つとなった。


1931年(昭和6年)満州事変
ドイツは日本を非難する側に回っており,満州国も承認していなかった


1932年(昭和7年)
ヒトラー『我が闘争』日本語版出版(日本での最初のタイトルは『余の闘争』坂井隆治訳)


1933年(昭和8年)  ヒトラー内閣が発足
3月 ユダヤ系の社員を解雇してウーファを一変させる。
6月 帝国映画院(Reichsfilmkammer)を設立、ユダヤ系や外国人を排除して映画業界をコントロール。

1934年(昭和9年)2月 ドイツ「映画法」制定
強制的同一化のプロセスの一環として、ドイツのすべてのプロダクションはゲッベルス管轄下の国民啓蒙・宣伝省に属する帝国映画院の下に置かれ、映画産業に従事するすべての人々はReichsfachschaft Filmのメンバーでなければならなくなった。


アーリア系でない映画人や、政治的また個人的にナチに受け入れられなかった映画人は業界から締め出されることになる。これによって約3,000 名が影響を受けたと見られている。加えて、ジャーナリストたちも宣伝省の下に組織されることになり、
同年 8月 ヒンデンブルク大統領死去に伴い、大統領の権能をヒトラーが個人として継承(総統)
ヒトラーは人種主義、優生学、ファシズムなどに影響された選民思想(ナチズム)に基づき、北方人種(アーリア人)が世界を指導するべき主たる人種 (de) と主張。


1935年9月15日ニュルンベルク法制定
「ドイツ人の血と名誉を守るための法律」と「帝国市民法」の総称。
ユダヤ人から公民権を奪い取った法律として悪名高い。
ニュルンベルク法や経済方面におけるアーリア化など、アーリア人の血統を汚すとされた他人種である有色人種(黄色人種・黒色人種)や、ユダヤ系、スラブ系、ロマとドイツ国民の接触を断ち、また迫害する政策を推し進める。
ドイツ民族であるとされた者でも、性的少数者、前衛芸術、障害者、ナチ党に従わない政治団体・宗教団体、その他ナチスが反社会的人物と認定した者は民族共同体の血を汚す「種的変質者」であるとして迫害・断種された(生きるに値しない命)。


1935年(昭和10年)
合作映画の構想は,日独協会の設立者の一人でもある,在ベルリン海軍武官事務所勤務の酒井直衛とハックの会話から生まれた。
ドイツ人の監督に日本人の俳優を使って日本映画を製作してもらったらどうだろう、ドイツ人監督の感覚で日本をとらえれば、観客にもアピールするのではないか。この酒井のアイデアに共感したハックはすぐに友人のファンクに連絡をとった。


日独双方には協定に反対する勢力が存在し,交渉の前途は難航が予想された。日独合作映画の企画には,文化交流によって政治交渉を側面援護する意図が込められていた。

日本の川喜多長政に話をもちかけたのはハック。ハックはすでに日独協会理事としてゲッベルスに接触し,十万マルクの資金援助をとりつけていた。
7月 川喜多長政がファンクやテラ社との交渉のために,ベルリンへ。
9月17日ハックが初めて駐独陸軍武官の大島浩と,日独協定問題について会談。
この頃,『新しき土』のプロジェクトはすでに動き出していた。


『新しき土』は,ドイツ政府の外交政策が反日から親日へ転換したことを国民に告げる役割を担っていた。
ファンクに与えられていた課題は,ドイツの新たな友邦を国民に紹介することだった。


1936年2月8日 ファンク撮影隊の訪日

日独軍事協定締結交渉の秘密使命を戴した政商フリードリヒ・ハック(日本海軍に武器を納入する貿易商)が同行。


1936年11月25日 日独防共協定が締結
スターリン率いるソビエト連邦への対抗を目指す。
ヒトラーは、日本を同列の文明国と見て防共協定を結んだわけではない。東方の生存圏獲得という大目標がなければ、日本に特別の関心をもつことはなかった。


1936年(昭和11年)11月27日ドイツ「藝術批評禁止法」を公布。

映画批評は禁止されFilmbeobachtung(「映画報告」)に取って変わられた。
ジャーナリストたちは映画の内容をリポートすることだけを認められ、作品にいかなる評価を下すことも出来なくなってしまった。


1937年(昭和12年)2月末
『新しき土』が日本で記録的なヒット。ハックは日本国政府より勲四等旭日小綬章を贈られる。


1937年3月10日
ナチス対外組織部東京支部長ルードルフ・ヒルマンは「ハックの滞日中の行動に関し、機密情報漏洩の疑いがある」という告発文をベルリンの本部に送る。


1937年3月23日『新しき土』ドイツ公開
宣伝省の通達によりヨーゼフ・ゲッベルスとアドルフ・ヒトラーが自ら検閲して最終許可を与えたことが大々的に報じられる。
ベルリンでの試写会の翌日、宣伝相ゲッベルスは『新しき土』に最高映画賞を与えた。
最高映画賞を与えることによって,国家の意思を国民に伝えたのだ。


1937年7月
ハック、ゲシュタポによって逮捕される。ナチスドイツでは党,軍,官僚組織の激しい権力闘争があり、ハックは統合参謀本部防諜部のラインに繋がっていた。


1937年の暮れ
日本海軍の尽力でハックは釈放。ひそかにスイスに亡命した。
やがて太平洋戦争に突入する日本にとって,以後ハックは貴重な情報提供者となる。


1937年11月6日  日独伊防共協定


1937年12月
『わが闘争 アドルフ・ヒットラー』 大久保康雄訳出版
日本人に関する差別的記述は削除されての出版だった。


1938年(昭和13年)独満修好条約によって満州国を正式承認


1939年(昭和14年)日本「映画法」制定
昭和10年以降、日中戦争遂行や総力戦体制構築のため、軍国主義政策を推し進める。映画も例外ではなく、この法律によって、日本の映画も娯楽色を極力排除し、国策・軍国主義をうたった映画を強制的に製作させられることになる。台本の事前検閲、映画会社(製作・配給元)の許認可制、ニュース映画・文化映画の強制上映義務、また外国映画の上映も極力制限された。


1939年 独ソ不可侵条約 
 
ソ連との秘密協定を元にポーランド侵攻を開始。同9月3日にはこれに対してイギリスとフランスがドイツへの宣戦布告を行い、これによって第二次世界大戦が開始された。10月中にポーランドはほぼ制圧され、ヒトラーの視線は西に向かった。
ナチスドイツは一時的に領土を拡大。この戦争の最中でユダヤ人に対するホロコースト、障害者に対するT4作戦などの虐殺政策が推し進められた。


【個人的感想】

歴史の流れを見れば一目瞭然。
生存圏獲得で対ソ連を目標にしていたナチスドイツは、日本に目をつけ日本と組もうとした。しかし、ナチスの人種主義では黄色人種の日本は劣等国。そんな国と手を組むことに国民からの反発が予想される。


そこで、日本がドイツと手を組むにふさわしい、いかに素晴らしい国であるかをドイツ国民にアピールする必要がある。そのために企画されたのがこの映画だった。
日本が伝統のある美しい国であることを強調、同時にヨーロッパにはない夜のネオンサインの光の洪水や工場を見せることで工業・産業的にも先進国であることのアピール、さらに、(ココが大事)地震国で国土も狭い日本には新しい土(満州国)が必要であること……ということで、この映画の大テーマは日本の満州国を認めることにより、ナチスドイツの領土拡大をも肯定することにあったのです。
まさに、ナチスドイツの国策映画だったわけで。


伊丹監督がこのシナリオに納得しなかったのももっともです。別バージョンが作れたことは奇蹟のような気もする。日本が舞台だったからこそできたことで、ドイツが舞台だったら、即収容所送りになっていたかもしれない。

ファンクの地理を無視したトンデモフィルムを、少しでも整合性のあるようにと編集し直した伊丹版だったが、日本での1週目の試写会ではぼろくそに言われたそう。どんなに編集し直しても日本人からみたら地理的にあり得ないことが多すぎたから。

2週目の試写会ではファンク版が上映。ファンク版のほうが断然評判が良かった。伊丹版の地理のデタラメぶりを先に知っている観客は、伊丹版に輪をかけたような地理無視には慣れてしまっていて、伊丹版よりも長い部分、たっぷりと山の情景などを見せたファンク版。さすが山岳映画の巨匠ファンク。


ゲッペルスはファンク版を見て「耐え難い長さ」と一刀両断だったが、日本の観客は壮大な火山や美しい日本の情景描写に引き込まれファンク版を支持したというわけ。


私が観たのもファンク版。できれば伊丹版も見てみたい。


さて、『新しき土』での原節子さんは本当に素晴らしかった。
『河内山宗俊』ではしっとりとした美しさゆえか、どうしても16歳には見えなかったが、『新しき土』の中ではしっとりとした美しさに加えて、可愛く、はつらつとした16歳の原節子さんをたっぷりと見ることができた。

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                       河内山宗俊


以下、『新しき土』

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映画の成り立ちはいろいろあったとしても、こんなにも美しく生き生きとした16歳の女優が日本にいたことが再確認でき、この映画を観て本当に良かった。


【余談】
ファンク監督のこの地理無視の編集って、ロシア・モンタージュ理論の元祖レフ・クレショフ(エイゼンシュテインの師匠)の「創造的地理」の概念?

別々の実在の景観の「要素」を組み合わせることにより、ありもしない景観が合成される。
つまり任意のショットによって任意の空間が生み出される「創造的地理」という映画独自の概念。


この映画一本で世界史、映画史をたっぷり勉強できた……

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