2014.06.11

グリーフワーク(悲嘆のプロセス)

死の受容プロセスをUPしたので、ついでに悲嘆のプロセスについてもUPしておく。

悲嘆のプロセスは、シナリオの勉強をしている頃から参考にしている資料の一つだけど、その頃に比べて、今は“グリーフワーク”と呼ばれて、“グリーフケア(悲嘆回復)”とともに必要性が認識され始めている。

しかし、欧米諸国では、予防医学としてのグリーフケアに対して公的援助などもあるそうだが、その点、日本はまだまだ発展途上だとのこと。

◆グリーフケアとは
大切な人を亡くして悲嘆(グリーフ)に暮れる人を支える(ケア)こと。 
人は死別などによって大切な人を失うと、大きな悲しみ=悲嘆(GRIEF)を感じる。
悲嘆は、いくつかのプロセスを経て、やがて悲しみを乗り越えていく。
しかし、人により期間に差があり、半年から長い人では数年にも渡ると考えられている。

この悲嘆のプロセスを「グリーフワーク」という。
そして、特に患者さんの死後、家族をケアしていくことを「グリーフケア」という。 


◆アルフォンス・デーケンの悲嘆のプロセス 12の段階
 アルフォンス・デーケン 
  1959年に来日し、 日本で初めて「死への準備教育」の必要性を提唱した人物。 
 
 「この辛い12の段階を誰かが代わって行うことはできない、自分の中で時間をかけて消化するより仕方がない 」と力説 
 12の階段の内容は個人差があり、順番に経験することもあれば、入れ替わることも、同時に経験することも そして、順番を飛び越えることもある。
 
1段階 精神的打撃と麻痺状態 
 愛する人の死という衝撃によって、一時的に現実感覚が麻痺状態になる。
 頭が真空になったようで、思考力がグッと落ち込む。
 心身のショックを少しでも和らげようとする本能的な働き、 つまり、防衛規制。


2段階 否認
 
 感情、理性ともに相手の死という事実を否定する。 
 「あの人が死ぬ訳がない、きっと何かの間違いだ」という心理状態。 


3段階 パニック
 
 身近な死に直面した恐怖による極度のパニックを起こす。 
 悲嘆のプロセスの初期に顕著な現象 
 なるべく早く抜け出すことが望ましく、またこれを未然に防ぐことは、悲嘆教育
の大切な目標のひとつと言える。
 
4段階 怒りと不当感 
 不当な苦しみを負わされたという感情から、強い怒りを感じる。
  「私だけがなぜ?」「神様はなぜ、ひどい運命を科すの?」 
 ※ショックがやや収まってくると「なぜ私だけが、こんな目に…」という、不当な
 仕打ちを受けたという感情が沸き上がる。 
  亡くなられた方が、長期間闘病を続けた場合など、ある程度心の準備が
 できる場合もあるが、急病や災害、事故、自死などのような突然死の後では、
 強い怒りが爆発的に吹き出す。 
  故人に対しても、また自分にひどい仕打ちを与えた運命や神、あるいは加害
 者、そして自分自身に対する強い怒りを感じることもある。 


5段階 敵意とルサンチマン(憤り、怨恨、憎悪、非難、妬み)
 
 周囲の人々や個人に対して、敵意という形で、やり場のない感情をぶつける。 
 遺された人のどうしようもない感情の対象として、犠牲者を必要としている場合
が多く、また病死の場合は敵意の矛先を最後まで故人の側にいた医療関係者
に向けられるケースが圧倒的。 
 日常的に患者の死を扱う病院側と、かけがえのない肉親の死に動転している
遺族側との間に、感情の行き違いが起こる場合が多い。 


6段階 罪意識
 
 悲嘆の行為を代表する反応で、過去の行いを悔やみ自分を責める。 
 「こんなことになるなら、生きているうちにもっとあれこれしてあげればよかった」
 という心境。 
 過去の行いを悔やんで自分を責めることになる。
 
7段階 空想形成・幻想   
 幻想ー空想の中で、故人がまだ生きているかのように思い込み、実生活でも
そのように振る舞う。 
 例1:亡くなった子供の部屋をどうしても片付けられず何年もそのままにしている 
 例2:いつ子供が帰ってきてもいいよう、毎晩ベッドの上にパジャマまで揃えおく 


8段階 孤独感と抑うつ
 
 健全な悲嘆のプロセスの一部分、早く乗り越えようとする努力と周囲の援助が
 重要 
 葬儀などが一段落し、周囲が落ち着いてくると、紛らわしようのない寂しさが
  襲ってくる。 


9段階 精神的混乱とアパシー(無関心)
 
 日々の生活目標を見失った空虚さから、どうしていいかわからなくなり、あら
  ゆることに関心を失う。 


10段階 あきらめ・受容
 
 自分の置かれた状況を「あきらか」に見つめて受け入れ、つらい現実に勇気
をもって直面しようとする努力が始まる。 
※「あきらめる」という言葉には「明らかにする」というニュアンスが含まれている。


11段階 新しい希望・ユーモアと笑いの再発見
 
 ユーモアと笑いは健康的な生活に欠かせない要素で、その復活は悲嘆プロセス
 をうまく乗り切りつつあるしるし 
 ※悲嘆のプロセスを彷徨っている間は、この苦しみが永遠に続くような思いに
  落ち込むものだが、いつかは必ず、希望の光が射し込んでくる。 
   こわばっていた顔にも少しずつ微笑みが戻り、ユーモアのセンスも蘇ってくる。 


12段階 立ち直りの段階・新しいアイデンティティの誕生
 
 愛する人を失う以前の自分に戻るのではなく、苦悩に満ちた悲嘆のプロセス
 を経て、新しいアイデンティティを獲得し、より成熟した人格者として生まれ変
 わることができる。 
 
◆一般的に悲嘆のプロセスに要する期間  
 配偶者の場合で1~2年位
 子供の死の場合は2年~5年と言われている。
 ただし、精神的な影響を大きく受けることから、大幅な個人差と多様性がある。
 場合によっては命を失ってしまうほど消失感が大きいこともある。

  

| | コメント (0) | トラックバック (0)

死にゆく過程のチャート(死の受容プロセス)

『最高の人生の見つけ方』(2007)の中で、映画が始まって24分頃に、末期ガンの化学療法の辛さに耐えるエドワード(ジャック・ニコルソン)とカーター(モーガン・フリーマン)が次のような会話をする。

エドワード「……自殺を考えたことは?」
カーター 「自殺? 私が? まさか」 
エドワード「やっぱりな。第1段階だ」
カーター 「何が?」
エドワード「死の受容プロセスは?」 
カーター 「否認だろう、怒り、取り引き、抑うつ、受容」 
エドワード「だから自殺を考えないのは、当然ながら第1段階に当たる。否認だ」
カーター 「じゃあ、あんたは?」 
エドワード「否認だ」
カーター 「だが自殺を考えてる」
エドワード「ちらっと頭を過ぎっただけだ」 

この『死の受容プロセス』は、アメリカの キューブラー・ロス(Kubler Ross)が約200人の末期患者とインタビューを行い、「死にゆく人の心理過程」として、否認、怒り、取引、抑うつ、受容という5つの反応段階をあげ、末期患者が心理的にどのように変化し、死を迎えるかのプロセスについて提唱。日本では『死にゆく過程のチャート』と訳されているよう。

Color

◆第1段階「否認」(denial)

末期がんであることを告知されたり、残り少ない命であると医師から告げられたときに、まず現れるのがこの「否認」。

「これは何かの間違いに違いない」
「自分に限ってそんなことは起こりえない」

という具合に、否認をすることで自分を防衛しようとする。

否認は臨死患者が長期に渡って、その中で生き続けなければならない、不快な、痛ましい事態に対する健康な対処方法であり、予期しない衝撃的なニュースを聞かされた時の緩衝装置として働く。

◆第2段階「怒り」(anger)

「否認」が維持できなくなると、次第に自分の命が短いことを認めざるを得なくなる。
すると、「怒り」が現れる。

「なぜ自分がこんな目にあうんだ!」
「一体私が何をしたというのか!」

というように、あらゆる方向に対して「怒り」が向けられる(転移)。

この場合、患者の言うことを聞いてやり、時には患者の理不尽な怒りをすら受け入れてやることが重要である。患者は、怒りを表出することによって解放が得られ、鬱屈したものの放散によって、最後の数時間をよりよく受容できるようになる。

◆第3段階「取引」(bargaining)

十分な「怒り」を体験した後は、もはや避けられない今の現実を少しでも先延ばしにできないものかと、交渉する段階に入っていく。これが「取引」。

「何か人々の役に立つようなことをするから、死を避けたい」
「もう2度と悪い行いはしないから、命だけは助けて欲しい」

このような「取引」は、主に個人が信じる「神」と行われる。

取り引きは、本当は延期すること、例えば、死を先へ延ばすこと、恐ろしい手術、疼痛、肉体的不快などを一日でも先へ延ばすことなどのためのあがきである。また、取り引きでは必ず、患者自身が自らに、「一度だけ歌わせてくれればよい」、「長男の結婚式に出席させてくれさえすればよい」、などのような期限を付け加えるものである。

◆第4段階「抑うつ」(depression)

神との「取引」が成立しない、自分はもう死ぬしかないのだ、という心理状態にたどり着くと、「抑うつ」という段階に移行する。

「愛する人々と別れなければいけないのか・・・」という死への”準備的な抑うつ”と、
病気に関する”反応的な抑うつ”がある。

a.反応抑うつ: 大きなものをなくしたという喪失感による。手術による肉体的喪失、長期入院による経済的喪失や、失職による社会的喪失などである。 

b.準備抑うつ: 反応抑うつのように過去の喪失からでなく、差し迫った喪失を思い悩むことから生じる。

末期患者が世界との決別を覚悟するために経験しなければならない準備的悲嘆であり、最終的受容への踏み石となる。

末期患者が受容と平和の段階のうちに死ぬためには、準備抑うつが必要であり、苦悩と不安とを苦しみながら耐え得た患者だけが、受容と平和の段階へ至ることができる。

◆第5段階「受容」(acceptance) 

この段階まで来ると、自分の死を「受容」できるようになってくる。
ゆったりとした平安な気持ちになり、死に向けて気持ちが整ったような状態になる。

自分を取り巻く多くの意味深い人々や場所などを、もうすぐすべて失わなければならないという、その嘆きも悲しみもし終え、今ある程度静かな期待を持って、近づく自分の終焉を見つめることができる。

しかし、受容を幸福の段階と誤認してはならない。受容にはほとんどの感情がなくなっている。
また、不可避の死を回避したいと闘えば闘うほど、死を否認しようとすればするほど、平安と威厳に満ちた受容の最後段階に到達するのが難しくなる。

患者が漸進的デカセクシス(周囲対象からの執心の引き離し)へ進み、この受容段階へ到達するためには、すさまじいタスクを通過しなければならない。


『最高の人生の見つけ方』のカーターとエドワードは、最も辛い第2、第3、第4段階をベッドの上ではなく、外に飛び出すことでポジティブ&アグレッシブに乗り越えようとする。

当然、どこにいようと、2人は間もなくやっている死の影からは逃れられず、死を迎える準備のための話題を語り合うシーンが多々ある。

★46分~:プライベート・ジェット機から北極上空の神秘的な光景を眺めながら、神の存在や信仰心について語り合う。

信仰心の厚いカーター(モーガン・フリーマン)に対して、無神論者のエドワード(ジャック・ニコルソン)。

エドワード「「あんた、俺がこうして空を見上げて、あれやこれや誓えば“ガンが消える”と信じてると思うか?ありえん……生きて、死ぬだけだ。それまで車輪はただ回り続けるのさ」

★59分~:エジプトのピラミッドの頂上で、天国の門について語り合う。

カーター「古代のエジプト人はこう信じてた。死んだ魂が天国の扉の前で神に2つ質問され、その答えによって入れるかが決まる……自分の人生に喜びを見つけたか? 他者の人生に喜びをもたらしたか?」

のちにエドワードはこの話を思い出し、カーターはダンテの『神曲』に描かれた案内人ウェルギリウスかもしれないと思い始める。

暗い森の中に迷い込んだダンテは、そこで出会った古代ローマの詩人ウェルギリウスに導かれ、地獄、煉獄、天国と彼岸の国を遍歴して回る。
ウェルギリウスは地獄の九圏を通ってダンテを案内し、煉獄山に辿り着く。
煉獄山では登るにしたがって罪を清められていき、煉獄の山頂でダンテはウェルギリウスと別れることになる。
そしてダンテはそこで再会した永遠の淑女ベアトリーチェの導きで天界へと昇天し、各遊星の天を巡って至高天(エンピレオ)へと昇りつめ、見神の域に達する。

エドワードにとってカーターがウェルギリウスだったとしたら、ベアトリーチェは娘あるいは孫かもしれない。カーターの導きにより娘と再会し、神を信じなかったエドワードに奇跡が起こった。

そう考えたら、この作品はダンテの『神曲』をベースにした物語だということが見えてくる。

★64分~:インドのタージ・マハルでは葬儀について、土葬か火葬かについて語り合う。

エドワード「葬儀については、未だに迷ってる。特に土葬か火葬かをな…土葬の場合、死後とはいえ俺は閉所恐怖症だ。万一、地中で目覚めたら、どうする?……火葬の場合、遺灰はどうするかが問題だ。埋めるか、撒くか、棚に置くか、花と一緒にガンジス川に浮かべて流すか。 炎の中で目覚めたらどうする?」 

Chock_fullonuts

カーター「私は絶対に火葬がいい」 そして骨壷は「“チョック・フル・オブ・ナッツ”(インスタントコーヒー)のコーヒー缶で十分だ」
エドワード「あれはいいな。“天国のコーヒー”だ」

↑と、この作品では“チョック・フル・オブ・ナッツ”の錆びた缶が大活躍する(冒頭では灰皿代わり)

それにしても、エドワードの「地中で目覚めたら?」 「炎の中で目覚めたら?」の心配はまさに私にも“あるある”で、そんなエドワードを抱き締めたくなってしまう(笑)

★67分~:エベレストの山小屋で、仏教の輪廻転生について語り合う。

★そして、カーターへの別れの言葉の中でエドワードは天国の門について語る。

徹底的に無神論者だったエドワードが、こうして徐々に死の準備=死の受容をしていく過程がしっかりと描かれている。


死の受容・・・・・・

私は10代から20代にかけて宗教に関しては広く浅くいろいろ考えていた。
どんな無神論者でも、死を前にしたら神や仏に祈り、すがるのではないか?
では、その時のために……とキリスト教の洗礼を受けた。

私にとって宗教は死ぬ瞬間の恐怖を除くためだったわけだが、どんなに天国を信じていても……やはり、エドワードと同じく土に埋められたり、火に焼かれたりを想像すると怖い!

天国を信じることによって、そちらに行けば、先に逝ったラブやセントと再び会えるという楽しみはあるが……こればかりは、その時になってみないと自分がどんなふうに死を受容するかは分からないなぁ。

理屈じゃなくて、感情だからなぁ……。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)