2008.11.12

父の眼差し・父の記憶

【父の眼差し】

Imgp50182 10月の中旬に行われた『ホームムービーの日』、北千住会場には9家庭から120本以上の8ミリフィルムが集まった。
ほとんどが押し入れの奥に眠ったままのフィルムで、中には捨てられる寸前のフィルムもあった。

そのうち、当日上映されたのは約20本余。
一番古いフィルムはなんと1957年(昭和32年)に撮影されたもの。
新しいものでも1987年(昭和62年)のもの。

昭和の後半約30年間のそれぞれの家庭の風景や家族の歴史、街の様子など8ミリフィルムに映された映像はまるで日本の庶民の歴史を見ているようでもあった。

Imgp50232 そんなフィルムを見ていて、ひしひしと感じたのは“父の眼差し”だ。

今のように女性でも子供でも簡単に撮れて現像の手間も必要ないデジタルビデオと違って、その時代、家庭用の8ミリフィルムを撮っていたのはほとんどが男性。

今回上映されたホームムービーを見ていて、スクリーン上の映像が「父親の視線」で映されたものだということに気がついた瞬間、そんな「父親の視線」に見守られて育った子供たちはなんと幸せなんだろうと思った。

上映会場では、そんな幸せな子供たちのうち数人にお会いした。

8ミリフィルムの中で中学生だったW家のTK君は中年男性に、幼児だったO家のTY君は立派な青年に成長していた。
また叔父さんが8ミリマニアで、叔父さん夫婦に我が子のように可愛がられていたOI家の幼いT子ちゃんは主婦になっており、そのフィルムが撮られた時(昭和33年)まだ生まれていなかったT子ちゃんの妹は30代の女性に。
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この上映会がなければ決して出会うことも見ることもなかった他人の家族の歴史だけれど、過去の町並みや、人々の服装、家の中の様子などまるで「ALWAYS 三丁目の夕日」そのまま。8ミリフィルムに焼き付けられた映像が立派な昭和の記録だということを改めて認識しました。

(※上の写真はすべて『放送映画文化講座【てら】』HPより)

一家の大黒柱としてファインダー越しに家族を暖かく見守る“父の眼差し”……そんな親子・家族関係も昭和から遠く離れて変わってきているのではとも感じてしまった。

そして、そんな8ミリ好きの父がいたから今がある……と思わせてくれたのはTK君とTY君。

TK君とは11月8日の日記に書いた北千住でカフェバーをやっているT氏のこと。(ここではTK君と書く)。TK君は日本映画学校に進んでいる。
また、TY君は今や若手の放送作家として活躍中。

二人とも、少なからず父親の影響があったのではないかしらと勝手に感じてしまった。

というのも、気がつけばシナリオライターになっていた私自身、書く仕事はいろいろあるのになぜシナリオライターになったんだろうと考えた時、父の存在を考えずにはいられないもので……。

【父の記憶】

私の父は私が9歳の時に39歳の若さで亡くなった。
当時、7歳と4歳だった妹たちには父の記憶はあまりないらしいが、私は父の亡くなったその日のことは鮮明に覚えている。

その日、父の寝ていた奥の部屋の戸は閉ざされたままで、中の父がどうなっているのか子供の私には全く分からなかった。と、いきなりその部屋から母が出てきて、アイスクリームを買ってくるようにいわれた。何か切迫した雰囲気を感じて私は急いでアイスクリームを買いに家を飛び出した。

そして、アイスクリームを買って帰ってから間もなく、父の部屋からかかりつけのお医者さんが出てきた。そのお医者さんにすがりつくように母が泣き叫んでいた。
「あんたが殺した……あんたが殺した……なんで助けてくれんかったんね……」
私は何が起こったのか判らなくて、茫然と母とお医者さんを見ていた。

それからどのくらい時間が経ったのか……次に覚えているのは、私が買ってきたカップアイスを母が泣きながら食べていたシーン。母は溶けてしまったカップアイスを泣きながら黙々と口に運んでいた。

母の実家から駆けつけた祖母によって、私はようやく父が死んだのだということを知らされた。
死の間際、父はアイスクリームを食べたいと言ったのか……
父の早すぎる死を母は受け入れることが出来ずに医者を責める言葉を叫んでいたのか……

祖母は4歳の妹を抱いて「父さんにお別れしよう」と父の枕元に行き、顔を覆った白布をめくった。
だが、その時、私はどうしても父の顔を見ることが出来なかった。

なぜか突然「死んだ人の顔を眺めるのは、死んだ人に失礼だ」と子供心に思ってしまった。
なぜ9歳の子供の心にそんな言葉が浮かんだのか未だに分からない。
でも私は頑なにそう思い込んで、父の死顔を一度も見なかった。

(大人になって、長い間、私が人の死というものを実感を持って受け留められなかったのは、その時の体験が影響しているのではと思った。もしかしたら、私は父の死に顔を見ないことで父の死という事実を認めたくなかったのかもしれない。死というのは人間にとって未知の領域であり、未知のことを分からないままに納得して受け入れることが出来なかったのかも)

父が亡くなって以後、私は父が欲しいとは一度も思ったことがない。
9歳の子供でも、死んだものは二度と戻ってこないということは十分に分かっていた。だから「父が欲しい」と思うことは究極の“ないものねだり”でしかなかった。
父は病気と闘い、そして二度と戻れないところに行ってしまった。

どんなに泣いても叫んでも喚いても絶対に手に入らないものがある……
私にとって父はそんな存在だった。

少し大きくなって私は自分の中の父の記憶を整理してみた。

母の実家に行った時、バスを降りようとしたら、降りる人を押しのけるように乗ってきた人がいた。その時、「降りる人間が先だろう!」と怒鳴った正義感の強い父さん。

釣りが好きで、家族で耶馬溪まで釣りに行ったのに、気がついたら母がいない。どうやら夫婦喧嘩をして母は先に帰ってしまったらしい。坊ちゃん気質で夫としてはちょっとワガママだったかもしれないけど、子供には優しかった父さん。

ある日、家の中にカバヤのキャラメルが大量に買い込まれていた。理由はカバヤキャラメルの中に入っているクーポン券(サービス券?)の点数を集めると小鳥がもらえるとのこと。父はどうやら小鳥屋を始めるつもりだったらしく、我が家の中庭はたちまち十姉妹や文鳥やカナリヤなどの小鳥の箱だらけになった。私が学校から帰ると数十箱はあった小鳥の箱の水替えなどをやらされた。しかし結局、小鳥屋は開けなかった父さん。

浪曲が大好きで、いつもラジオで浪曲を聞いていた父さん。

ある夜、母がなかなか帰ってこず不安がっていたら、いきなり日本手ぬぐいをほう被りして鼠小僧治郎吉の真似をして笑わせてくれた父さん。

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鉄工所の長男として生まれながら若い頃から病弱で徴兵検査にも撥ねられて戦争に行けなかった父さん。

また病弱ゆえに家業を継がず、本家の隣で趣味の店を開いてそれを生業としていた父さん。

↑若い頃(20歳)、思いっきり気取ったポーズで写真に写っている父さん。

ある日、シナリオライターの仕事に就いて間もなく、そんな父の記憶の断片を思い出している時、ふと思った。
もしかしたら、シナリオライターの仕事って、父がやりたかった分野の仕事ではなかったのか?
身体が弱くて外に出て普通の仕事が出来なかった父は芸能や文化的な仕事に対して夢を持っていたのではないか?
だとしたら、シナリオライターの仕事は父が自分がやりたかった分野に私を導いたのではないか?

否、もしかしたら、私は記憶の断片から勝手に父を想像して、実像と違う父を作り上げてしまっているのかもしれない。
だとしても、幼い私が初めて接した芸能は父の好きな浪曲であり、父の扮した鼠小僧治郎吉だったことには変わりない。

そんな父が残してくれた記憶は私の細胞に浸み込んで、今の私が作られているような気がする。
たった9年しか父の子供でいられなかったけれど、私は父の子供でよかったと心から思う。


『ホームムービーの日』のフィルムから感じた“父の眼差し”は、改めて私自身の父との関係までも思い出させてくれた。
そんな『ホームムービーの日』に感謝。

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